人となり

野崎貢は戦中から戦後の貧困と復興、経済発展の激動のなかを生き、生涯を終えた人間である。外見は小柄な方で、風貌は川端康成に似ている。物言いは静かだが内に秘めた力は強いものを持っていた。歩くストライドは割合大きく力強い。軍隊経験からきているのか。
趣味嗜好はクラッシック音楽のレコード鑑賞、珈琲、ウィスキーが好き。作家は武蔵野;国木田独歩、風琴;宮川寅雄、北原白秋の詩集がお気に入りであった。若い頃は三つ揃いのスーツに黒いソフト帽をかぶり、伊達男であった。ある雑誌に掲載された文章の一節に次のような心持が書かれていた。「スーツに磨かれた革靴で小高い丘に登り、珈琲を片手にごろりと横になり、青空を眺めたい」。
思想信条形成の背景は石門心学[注1]にあるようである。戦後、東京都文京区小石川から世田谷区烏山町に移り住んだが、近在に寺町通りがあり、日々散策していた。妙高寺[注2]には速水御舟、専光寺[注3]には喜多川歌麿の墓があった。妙壽寺[注4]には石門心学を広めた中沢道二[注5]の墓もあり、これらの寺を訪れインスパイアされたようである。
好きな言葉は「道遠しと言えど、行かずば至らず。道暗しと言えど、行かずば至らず」 (荀子の言に「道は近しといえども、行かざれば至らず。事は小なりといえども、為さざれば成らず」、これをアレンジしたようです )。また、「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」(上杉鷹山)[注6]これも好きでした。
作品作風
作品名の多くに「光」「明かり」「灯り」「ともしび」「曙」「照」「春」などの文字がしばしば使われている。 戦中から終戦、そして戦後の復興の時代、この大きな時の流れのなかを生きた。惨憺たる焼け野原と陰鬱な社会からの開放。綯い交ぜになった混沌のなか、微かな希望の光に向い、一歩々々を力強く大地を踏みしめ歩む。肯定的人生観が花鳥風月のなかに反映されている。 擬人化されたような花鳥風月。穏やかに流れている時間、まさにその空間に入り込んでいる様な不思議な空気感。温もり。親近感。そうした印象を受ける作品が多い。そして必ず暗い色調の画面のなかに「明かり」「灯り」、希望の光が描かれている。
1971(昭和46)年の第35回新制作展「寒燈」や1994(平成6)年の第21回創画展「行く手を照らす、ともし灯」、1971(昭和47)第24回新制作・春季展「灯」、新潟三越展「山灯火」等はやはり世田谷区烏山町の寺町の臨済宗大徳寺派寺院 高源院[注7]にある小鴨飛来名勝池岸辺の切支丹燈籠から着想を得たようである。
「松林の朝」(佐久市立近代美術館・油井一二記念館収蔵)は北原白秋の「落葉松」[注8]からインスパイアされたようである。
経歴
- 1916年
- 東京都文京区小石川に生まれる
- 1939年
- 川端画学校修了
- 1950年
- 創造美術展に出品、創造美術初入選「山牛房」30号
- 1952年
- 新制作展に出品、以後毎回出品
- 1953年
- 新制作展に「稔」「冬」50号出品、新作家賞受賞
選抜秀作美術展(朝日)に「冬」50号出品 - 1955年
- 今日の新人展(鎌倉近代美術館)に「冬」120号出品
- 1956年
- 新制作展に「夜明け」「豊饒」出品、新作家賞受賞
選抜秀作美術展(朝日)に「たそがれ」50号出品 - 1957年
- 秀作美術展(朝日)に「夜明け」120号出品
- 1958年
- 新制作展に「方向」「渇」出品、新作家賞受賞
- 1959年
- 中央公論新人展、みずゑ賞選抜展出品
新制作協会会員に推挙される - 1960年
- 日本橋壷中居にて個展
日本画の新世代展(国立近代美術館)に「渇風」 「いばらの春」 「夜明け」 「月光」出品
凡樹画社展、秀作美術展(朝日)「月光」120号、現代日本美術展(毎日)「流れ」50号等に選抜され出品 - 1961年
- 東京大丸精鋭作家シリーズ個展
日本国際美術展(毎日)に「黄流」100号出品 - 1962年
- 秀作美術展(朝日)に「白夜」100号出品、現代日本美術展(毎日)に「兆」120号出品
- 1963年
- 飯田画廊にて個展
日本国際美術展(毎日)に「塵の中」100号出品 - 1964年
- 現代日本美術展(毎日)に「風」200号出品
- 1965年
- 飯田画廊にて個展
日本国際美術展(毎日)「白い炎」200号出品 - 1966年
- 現代日本美術展(毎日)「黄昏」100号出品
- 1967年
- 日本国際美術展(毎日)「かざはな」100号出品
- 1968年
- 現代日本美術展(毎日)「春愁」100号出品
- 1972年
- 東京セントラル美術館大作展に「かざはな」100号出品
- 1973年
- フジヰ画廊にて個展
- 1974年
- 東京セントラル美術館・屏風と大作展に「月秋」150号出品
創画会結成 - 1978年
- 東京セントラル美術館にて個展
- 1979年
- フジテレビ「テレビ美術館」放映
千葉県・柏市(当時は東葛飾郡沼南町)に移居 - 1981年
- 奈良県立美術館「白夜」収蔵
- 1982年
- 書籍「掛軸画法十二ヶ月」(渓水社)出版
新潟三越にて「掛軸画法十二ヶ月」出版記念「野崎 貢 日本画展」 - 1983年
- 優秀美術作品として文化庁買上、日本芸術院会館に於いて披露展、国立近代美術館に「曙」収蔵
長野県佐久市立近代美術館に「松林の朝」「月秋」「春光」「巣のある風景」収蔵 - 1988年
- 東京都・清瀬市郷土博物館/自然の恵み展に出品「松林の朝」
長野県・佐久市立近代美術館に「湖畔夕映」収蔵 - 1990年
- 東京都・青梅市立美術館/戦後の日本画展に出品「白夜」1964年作品
和光大学人文学部芸術学科講師(5年間) - 1992年
- 井上靖展/文学の軌跡と美の世界展(毎日新聞社主催)(茨城県天心記念五浦美術館)に「冬」(1955年作)を出品
- 1998年
- 千葉県・柏市(当時は東葛飾郡沼南町)に「星降る湖畔」30号収蔵
- 2001年
- 没(85歳)
- 創画会物故会員
注記
- [注1]▲
- 石門心学(せきもんしんがく)は正直・倹約・勤勉、「三徳」の実践。庶民のための生活哲学。江戸時代中期の思想家・石田梅岩(1685-1744年)を開祖とする倫理学、平民のための平易で実践的な道徳教である。石門とは、石田梅岩の門流という意味。陽明学を心学と呼ぶこともあり、それと区別するため,石門の文字を付けた。さまざまな宗教・思想の真理を身近な例を使ってわかりやすく忠孝信義を説いた。都市部を中心に広まり、江戸時代後期に全国的に広まった。
- [注2]▲
- 玄立山 妙高寺(日蓮宗) 東京都世田谷区北烏山6-23-1 http://www.myokozi.com/
- [注3]▲
- 霊照山 専光寺(浄土宗) 東京都世田谷区北烏山4丁目28番1号 http://www.teramachi-ziin.com/jiin/18senkouji.html
- [注4]▲
- 本覚山 妙壽寺(法華宗) 東京都世田谷区北烏山5丁目15番1号 http://myojyuji.or.jp/
- [注5]▲
- 中沢 道二(なかざわ どうに) 1725-1803(享保10-享和3)年。江戸時代中期から後期にかけて活躍した石門心学者。道二は号で、名は義道。京都西陣で織職の家の出身で、亀屋久兵衛と称した。40歳ごろから手島堵庵に師事して石門心学を学んだ。その後江戸に下り、1779(安永8)年に日本橋塩町に学舎「参前舎」を設け、石門心学の普及に努めた。道二の石門心学は庶民だけでなく、江戸幕府の老中松平定信をはじめ、大名などにも広がり、江戸の人足寄場における教諭方も務めている。
- [注6]▲
- 上杉鷹山(うえすぎ ようざん)江戸時代後期、米沢藩主
- [注7]▲
- 瑞泉山 高源院(臨済宗)東京都世田谷区北烏山4-30-1 http://www.teramachi-ziin.com/jiin/20kougenin.html
- [注8]▲
- 北原白秋の詩 「落葉松(からまつ)」
落葉松の幽(かす)かなる、その風のこまかにさびしくものあわれなる、ただ心より心へと伝ふべし。また知らん。その風はそのささやきは、またわが心のささやきなるを。読者よ、これらは声に出して歌うべききわものにあらず。ただ韻(ひびき)を韻とし、匂いを匂いとせよ(信州軽井沢の星野温泉に講師として招かれ、婦人とともに朝夕落葉松の林を散策する中で作られた。)
一
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
二
からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。
三
からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。
四
からまつの林の道は、
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。
五
からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり、
からまつとささやきにけり。
六
からまつの林を出でて、
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
からまつのまたそのうへに。
七
からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。
八
世の中よ、あはれなりけり。
常なれどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。